80年前に書かれたミステリー。でも本質的は全く古臭くないし、それは都会というものがある限り例え100年後でも古臭くならない類のものなのだろう。
妻を殺した容疑で死刑判決を受けた男。しかし彼は妻を殺したとされるはずの時間、酒場で出会った奇妙な帽子を被った女と食事をし、演劇を楽しんでいた。酒場のバーテン、タクシーの運転手、レストランの店員…誰かが彼らが共にいるのを見ていたはずなのに、女を見たと証言する者は誰もいない。死刑執行の時が迫る。果たして幻の女は現れるのか…。
「夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。」という有名な冒頭はまさにこの作品を象徴している。探しても探しても、幻の女を見たという人は出てこない。やっととっかかりになるかと思えば消えていく手がかり。アイリッシュは大都市の独特の空虚さと都市に住む人々の孤独を切ないまでに描き出していく。
生まれ育った家でさえも、こんなものが置いてあったのか!と今さらながらに気付く時があるわけで。人は見ているようで見ていない。それが大都市ともなればなおさらだ。死刑判決を受けた男は、一晩付き合ったはずの女の顔、髪の色すら思い出せない。
幻の女を作り出すのは都市の魔力であり幻想性だ。皮を剥いても剥いても本質にはたどり着けない。
そんな都市を描いた作品として非常に傑出した作品なのだけれども、もちろん死刑のタイムリミットが迫るジェットコースター式のミステリーとしても良質なエンターテイメントだった。何といっても最後のどんでん返しが素晴らしい。裁判の適当さや終盤の敵の追い詰め方など、今見ると多少無理がないでもないのだけれど、十分に許容範囲だったと思う。
昨今のミステリーは、もう踏み荒らされ尽くした畑にまだ踏まれていない所を探しているような、なかなか新しさを発揮しにくいジャンルじゃないかと感じていて。でもフーダニット、ハウダニット、ホワイダニットとか、そういう部分以外にもミステリーの素晴らしさはあるんだと改めて体験させてもらった。
ただ、ミステリーにしろSFにしろこのようにジャンルを横断しうる作家はやっぱり稀なのだとは思う。こんなミステリーがまだまだ私の知らない所に隠れていたらぜひ読んでいきたいのだけれども。
ただし、それだからこそ最後に幻の女を特に必要性もなくとってつけたように明かしてしまったのには興ざめだった。
ちなみに、上の表紙は以前の幻の女の表紙。現在のものよりこちらが圧倒的に良いと思う。幻の女は背を向けていなければいけなかった。最後まで読者の方に振り向いて欲しくはなかった。幻は幻のままでいて欲しかったのだ。